さんまの座右の銘「生きてるだけで丸儲け」に込められた深い思い

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お笑い怪獣らしいポジティブな名言「生きてるだけで丸儲け」だけど…

今なおお笑い界のトップに君臨し続けている明石家さんま。そんな彼の座右の銘「生きてるだけで丸儲け」。一見彼にぴったりなポジティブな名言であるように思えますが、その裏には様々な「死」を乗り越えてきた結果、彼が至った境地がその言葉に凝縮されていました。

いつもポジティブで明るい印象の明石家さんま

そんな明石家さんまの座右の銘として知られているのが「人生、生きてるだけで丸儲け!」

しかしその名言は、お笑い界ナンバー1と言っても過言ではない明石家さんまにとって、意味の深い名言だったのです

「生きてるだけで丸儲け」は、元々ある人物の名言だった?

歓楽的な温泉都市大分県別府市の観光開発に尽力し、田園的な温泉保養地由布院の礎を築いた実業家、油屋熊八。「別府亀の井ホテル」の創設者であり、別府駅前の銅像「ピカピカのおじさん」でも知られる油屋熊八は、当時まだあまり有名でなかった別府を観光地にしようと、別府港にさんばしを作る運動をしたり、観光バスを通して日本で始めてのバスガイドを乗せたりしました。地獄めぐりも熊八のアイデアの一つだそうです。

心に響く明石家さんまの名言ランキングでも、もちろん一位を獲得した「生きてるだけでまるもうけ」

一般的に「小さな失敗にくよくよするのはやめて毎日いいことをばかり考えて暮らそう」と言う意味で知られるこの名言

この名言は、波乱の人生を歩んだ油屋熊八の言葉と言われている

そんな油屋熊八をモデルにした、喜劇『別府温泉狂騒曲 「喜劇 地獄めぐり ~生きてるだけで丸もうけ~」』があります。

明石家さんまの師匠・笑福亭松之助。彼がよく使っていた言葉がこの「生きてるだけで丸儲け」だったという。

さらにこの言葉は、笑福亭松之助師匠がよく言っていたらしく、明石家さんまの座右の銘として知られる事になった

また、娘のIMALU(いまる)という名前も、「生きてるだけで丸もうけ(いきてるだけでまるもうけ)」を由来として命名されている

「母の死」による不遇な幼少時代…それでも「生きてるだけで丸儲け」だった

さんまの継母は、ほとんどさんまを完全無視し、連れ子である弟にばかり愛し続けたという。それでもさんまは継母と仲良くしてもらおう、反応してもらおうと毎日毎日必死で面白いことを考えた。そんな「家でも外でも起きてる間は常におもしろいことを考え続ける」という幼少期の経験が、今のさんまのルーツになっているのかも知れない。

いつも笑っていて、いつも人を笑わせている明石家さんま。さぞ楽しい家庭に育ち、面白い家族とこのセンスを幼少時代から送ってきたんだろう…と思う人も多いと思う

しかしそんなさんまは少年時代の話などは絶対にしません。それは暗い過去の話になるからです

さんまはプライベートをバラエティでほとんど喋らない芸人と言われており、親交の深い浅田美代子も、大竹しのぶの話をよくするのは生立ちの話をしないためのバリアみたいなもの。プライベート話をしてるようでしていないと語っています。

実はさんまの実母は3歳のころに亡くなっており、その後父が再婚したが、継母から辛らつな言葉を多く投げかれられたという

さんまは実の娘に命名する際、「生きてるだけで丸儲け」と言う意味と共に、いまる=数字の一の「い」、にちか=数字の二の「に」、さんま=数字の三の「さん」、しのぶ=数字の四の「し」と、大竹の連れ子であるニチカも含め、みんな自分の家族であるという意味を込めたという。さらに自分と継母の件があったからこそ、さんまはニチカをすごく可愛がり、家に帰ってもまずイマルより先にニチカに触っていたという。

さらに継母が酔っ払ったときに「うちの子はこの子だけや」とこぼしたのを聞いたさんま。この子とは継母の連れ子であるさんまの弟のことである

さんまの兄によると、この経験からさんまは酒飲む女の人が苦手なんだと語っています。

継母に相手して貰えずに子供のさんまは酷く傷つき、それでも振り向いてもらおうと面白いことを考えたことがお笑い芸人としてのルーツとなったようだ

糸井重里
「さんまさんって、育ちが不幸だったんじゃないかと思うんです。やっぱり、生きてるだけでまるもうけ、という名前を、子どもにつけるような人ですもの」

引退も考えたさんまを蘇らせた、「死」すら笑いに変えようとする覚悟

さんまを遠ざけ、自分の子だけをかわいがっていたという継母。それでも弟となる継母の連れ子は兄であるさんまを尊敬し、そしてさんまも弟のことを「チビ」と呼び、本当にかわいがっていたという。

継母はさんまを煙たがり、自分が産んだ子供だけを可愛がりますが、それでもさんまはその腹違いの弟も凄く可愛がっていたという

実際さんまは弟のことを「ぼくのことを、昔から、すごく尊敬してくれてるやつ」「ぼくがいうことは、すべて正しいと思っていたみたいです」と、振り返っていた

弟さんは、大阪のさんまさんのマンションにもしょっちゅう遊びに行くほど良好な関係だったという。

しかしさんまが芸能界に入り「オレたちひょうきん族」などの冠番組を持つほどになったある時に弟が実家の火事で亡くなってしまった

このとき弟さんはまだ19歳でした。

弟の死を受けて「チビ(弟)のほうがすごいんですよ。サッカー部のキャプテンで、インターハイにも出たし、国体選手にも選ばれたしねえ……。大阪のぼくのマンションに遊びにきたとき、今度のワールド・カップをふたりで一緒に見に行こう。キップはぼくが買っとくからって、約束しとったのに。まだ納得できません、あのチビが死んだなんて……」と、ショックを隠しきれずにいたさんま。さらに焼死を聞きつけ集まったマスコミに対し、無表情で「僕じゃなくて本当によかったですね、僕だったら新聞の一面は『さんま焼ける』になりますよね」と言い放った。さんまは肉親の死すら飯の種にしようとするマスコミに対し、自分流の意趣返しを行ったのだ。

このことに、相当ショックを受けてしまい、一時は芸能界を引退しようかと思うほど、笑いが取れない日々が続いた

しかしそれを見兼ねたのがオール巨人。舞台にさんまと一緒に出た時、唐突に 「お前んち、兄弟焼いたらしいな?」とツッこんだという

オール巨人とは同期で仲も良かったという。

するとさんまはすかさず「そや、材木きれたから代わりに焼いたんや」と、ボケたという

その後、楽屋に帰ったさんまは、「ありがとう。これで芸人辞めんですむわ」と、涙ぐみながら感謝したという

本当はもう死んでいた?「あの事故」が生と死を考えるきっかけに

1995年に単独機では世界最大の犠牲者を出すことになった日本航空123便墜落事故。乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。この事故で歌手の坂本九をはじめ、数多くの著名人が亡くなった。

実は明石家さんまは、あの日本航空123便墜落事故で死んでいたはずだったという

日本航空JAL123便墜落事故は、1985年8月12日に起きました。犠牲者数520名の大惨事です

当時、この飛行機の便にさんまは元々乗る予定だったという

しかし「オレたちひょうきん族」の収録が早く終わったことから日本航空123便をキャンセルし一つ前の飛行機に搭乗していた

123便をキャンセルし、ひとつ前のANA35便と推測される便で大阪に向かい難を逃れました。

事故当日は、現在でもレギュラーでMCを務めているラジオ『MBSヤングタウン』の生放送があったが、番組はほぼ事故の報道に終始。途中、ようやく登場したさんまは「遺族のお気持ちを考えると、ちょっとお笑いトークはできませんね。しかも、日航123便は、この『ヤングタウン』に出演するための移動手段として、私もよく利用していたんですよ。今日も123便を利用する予定でした。身体がずっと震えています。もしかしたら、私も死ぬところだったかもしれない」と語り、その後はずっと曲が流されたという。

このことはさんまはかなりのショックを受けたそうで現在でも大阪東京間は飛行機を乗らずに新幹線を利用しているという

本当ならば明石家さんまは日航機事故で亡くなっていたのかもしれない。そう考えることで、もう一度生かされた人生を最高に楽しみ、周りを笑顔をすることが彼に与えられた使命であるというふうな考えになったのではないだろうか

このように常に『死』を意識して生きてきたさんまだけに、 『生きてるだけで丸儲け』という言葉が深みをもってくる

明石家さんま

「俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いてる人を笑わせて幸せにしたいんや。これが俺の笑いの哲学や」

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