十一代目 市川 海老蔵の言葉

スポンサーリンク

(1)

五右衛門が秀吉から盗もうとしたとされる香炉を徳川美術館で見せていただきましたが、元はただの土じゃないですか。でも、歴史の重みや人々が触れていたときの環境、空気を持っていますよね。それを僕たちは香炉を通して体感できる。そういうものに美しさを感じるように、演劇という文化が残ってきた

(2)

時には力を入れることも必要だけれど、遮二無二やったのでは目指す地点には到達できない。般若心経には無という文字が最も多く出てくるくらいで、“ない”ことほど強いものはないんです。無になった時にこそ、その人の本当の才能がわかるんじゃないでしょうか

(3)

新作を立て続けにやると、お客様の感覚がより刺激的なものを求めるようになる。そうなると、古典が物足りなく感じられてしまう危険性があるじゃないですか。それは自分の目指すところではありません

(4)

僕らの世代がもっと危機感を持つべきなんじゃないかと、最近よく思うんですよ。国の借金とかいろいろ事情はあるけれど、僕は”文化力”が低下していくのがなにより怖い。そんな状況下で、この先も歌舞伎は生き残っていかなくちゃいけないわけですよね

(5)

先輩たちは「やっぱり子どもがいなかったら松王丸の心境はわかんねぇだろ」っておっしゃるんですよ。でもね、子どもがいてその心境がわかるのは写実にはなるけれども、その役に閉じこもるわけですよね、ある意味。でも子どもがいなければ、どういう心境なのか模索するという作業が広がるわけですよ

(6)

歌舞伎ばかりしてたら歌舞伎の人としか会わない。25日間公演があって、翌々日から次の公演の稽古。会ってもせいぜい300人でローテーションが変わるだけ。梨園(=歌舞伎界)と言ったってそこで狭く生きるだけが全てじゃない。もともと、傾(かぶ)いてるわけですから

(7)

「あ、意外とわかりやすいんだ」と思っていただく。そういう方がいらっしゃったら、また別のものを観てみようと思うかもしれない。そのときに「今回はちょっと難しかったな。でも、もう1回観たいから勉強してみよう」と思っていただくことが、僕の中で大きな仕事なんです

(8)

実は、“古典”というのは一番新しい。一番新しいこと、本当に深いところの心のありようの新しさを伝えるのは古典なんです。いまどき『判官贔屓(ほうがんびいき)』というのはどういうことか?『鎌倉殿』とは誰のことか?分からない若い人も多い

(9)

面白いものを生みだすのはひらめきでしょう。誰かと話していたりする中で、それ面白い!ということがあって、ならばこうしてああしてと始まる。ひとりで考えても舞台は立体化できないんです。決まってもいないものをひとりでうじうじ考えるのは自己満足。そういうのは僕は好きじゃないです

(10)

16歳のときに大役をいただいて、祖父の十一代目市川團十郎の舞台の映像を観るんです。これがカッコ良くてねえ…

(11)

親って、時々言うじゃないですか。お前は赤ん坊のころ、いつも指をくわえて寝ていた、とかって。以前は父がそういうことを言っても何も感じなかったのに、今は、僕のことをちゃんと見ていてくれたんだなと感謝の気持ちが湧いてくる。男子なので、それを口にはしませんが

(12)

自分が演出で自分が主演するという怖さ、自己満足で終わってしまうような…。それが臭うような舞台が一番怖いということを、お兄さんは指摘しているんだと僕は感じているんです

(13)

僕たちは日本人なのに、武士道やサムライスピリットについて忘れてしまっているじゃないですか

(14)

時には力を入れることも必要だけれど、遮二無二やったのでは目指す地点には到達できない。般若心経には無という文字が最も多く出てくるくらいで、“ない”ことほど強いものはないんです。無になった時にこそ、その人の本当の才能がわかるんじゃないでしょうか

(15)

野望というと、実現するかわからない難しいものでしょ。僕にはやんなくちゃいけない目的があるんです。七代目市川團十郎が制定した歌舞伎十八番を復活させること

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存