FAX

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夜、弟から電話がかかってきた。「おふくろのことなんだけど」と弟がいった。
「一つアイデアがあるんだ」
「どんな?」
とわたしは訊ねた。

おふくろは今年七十六になる。母はずっと一人で、二DKの公団住宅に住んでいる。おふくろは膝が悪い。
なんでも膝の軟骨がすり減って、歩くのがだんだん億劫になってきているそうだ。目も悪い。なんだか最近は霞んでよく見えないという。

だから、わたしと弟は、ずっといってきた。一緒に住もうじゃないか、と。わたしか弟の家で、そうでなければ、
半年ずつ家を替わって。

わたしたちがそういうたびに、おふくろはこういうのだった。
「あんたたち若い者とは、暮らし方も考え方もちがう。遠慮や気兼ねをして暮らすより、あたしはひとりが気楽でええ」
「しかしね、母さん。はっきりいって、もう歳でしょうが。
いつ倒れるか、わからない。だから、そう意地をはらないで、一緒に暮らそうじゃないか」
「気持ちだけ受けとっとくわ」

いざという時のために、携帯電話を渡しておく、という案も検討した。
しかし、二十年前に心臓を悪くしてペースメイカーを埋め込んでいる母は携帯電話を持てないのである。

だいたい、おふくろは電話さえしてこない。若い頃、姑に苦しめられたという母は、一つの家庭に外から干渉することを自分に厳しく禁じていた。

かくして、母は彼女の孤独な城で、たくさんの古い写真や手紙、あるいは古い映画のビデオに囲まれ、静かな最後の時間を過ごしていたのである。

そんな時弟がある提案をした
「FAXをプレゼントするんだよ」
と弟はいった。

「母さんは、ぼくらの仕事の邪魔をするのがイヤだって電話すらかけてこないだろ。FAXなら、その心配はないし、すぐに連絡もできる」
「そりゃ、いい!」

わたしたちはFAXを母に贈った。設置と説明にあたったのは弟だった。

機械は居間の仏壇とテレビの間に置かれることになった。
そこが母のいちばんお気に入りの場所だったからだ。

母は喜んでいた、と弟はいった。
しかし……いくら待ってもやっぱりFAXは送られてこなかった。

三ヵ月ほどたった寒い冬の明け方、わたしは弟からの電話で起こされた。
弟は沈痛な声で、母の死を告げた。弟が母の家に駆けつけた時、母はもう息をしていなかったのだ。

それから、弟は不思議なことをいった。
「白紙のFAXが届いてなかった?」

確かに、その前の日、白紙のFAXが届いていた。きっと誰かが悪戯で送ってきたものにちがいないとわたしは思っていた。
「おれのところにも届いてたんだ。そもそもFAX自体、滅多に来ないのにね。
もしかしたら母さんからかと思ったらなんだか心配になって、飛んできたんだ」

それは、母からの最初で最後のFAXだった。母は用紙の裏と表を間違えて送ったのだ。

おそらくは、心臓の発作の予感に襲われながら、震える手で字を書き、機械のボタンを押したのだろう。「なんて書いてあった?」とわたしは訊ねた。

【ありがとう】

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