ひとつ後悔していることがある。
7年生(中学1年生)のとき、
クラスに転入生が来た。
個人情報保護のためにこのスピーチでは
「エレン」を呼ぶことにしよう。
エレンは小柄で恥ずかしがり屋な子で、
その当時おばあちゃんしかかけないような
青い猫目型の眼鏡をかけていた。
神経質なときは(というかほとんどいつもだったが)
髪の端を口に入れる癖があった。
近所に越してきて以来、
エレンはほとんど無視されて、
たまに
「髪の毛、おいしい?」
などとからかわれていた。
そんな言葉に傷ついていたのが見てとれた。
その時の彼女の表情を今でも覚えている。
視線を落として、
拒絶されたような、
自分の置かれた立場を思いしらされ、
消え入りたいかのような、
そんな様子だった。
そうしてしばらくすると、
エレンは髪を口にくわえたまま、
立ち去っていったものだった。
放課後、
家で母親から
「学校はどうだったの?」と聞かれて
「うん、まあまあね」と
答える姿を想像した、
「お友だちはできたの?」、
「もちろん、たくさんできたわ」と。
時々、
エレンがそこから離れたくないように、
自宅の前庭をうろうろしているのを
見かけることがあった。
そして、一家は引っ越していった。
それでおしまい。
悲劇も大きないじめ事件もなく、
ある日突然やってきて、
また突然いなくなった。
それだけのことだった。
なのに、
私はどうしてこのことを
後悔しているのだろう?
42年も経って、
なぜいまだにそのことを考えるのか?
他の子たちと比べれば、
私はエレンに優しいほうだった。
意地悪なことは決して言わなかったし、
実際、(ちょっとばかりだが)
かばってあげたことさえあった。
それでもまだ、
私は後悔している。
陳腐だし、
自分でもどうしたらいいかわからないが、
真実だとわかっていることを話そう。
私が人生で最も後悔しているのは、
優しくなりきれなかったことだ。
目の前に苦しんでいる人がいたとき、
私は……無難に対応した。
だが、ささやかだった。
十分ではなかったのだ。
視点を変えてみよう。
これまでの人生の中で最も懐かしく、
はっきりと温かさをもって
思い出すのは誰だろう?
それは親切にしてくれた人のはずだ。
一見簡単なようで、
実行に移すのは難しいことだが、
人生の目標として
「もうちょっとだけ優しくなる」のも
悪くないのではないか。
―― 米シラキュース大卒業式(2013年度)作家ジョージ・ソーンダーズ氏のスピーチより一部抜粋