『母をおもふ』

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夜中に目をさましてかじりついた

あのむつとするふところの中のお乳。

「阿父(おとう)さんと

阿母(おかあ)さんとどつちが好き」と

夕暮の背中の上でよくきかれたあの路次口。

鑿(のみ)で怪我をしたおれのうしろから

切火(きりび)をうつて学校へ出してくれたあの朝。

酔ひしれて帰つて来たアトリエに

金釘流(かなくぎりう)のあの手紙が

待つてゐた巴里の一夜。

立身出世しないおれをいつまでも信じきり、

自分の一生の望もすてたあの凹(くぼ)んだ眼。

やつとおれのうちの上り段をあがり、

おれの太い腕に抱かれたがつた

あの小さなからだ。

さうして今死なうという時の

あの思ひがけない権威ある変貌。

母を思ひ出すとおれは愚にかへり、

人生の底がぬけて

怖いものがなくなる。

どんな事があらうともみんな

死んだ母が知つてるやうな気がする。

― 詩人 高村光太郎(1883 – 1956)

Photo: ChristinLola / Getty Images

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