(1)
インドのデリーから、
イギリスのロンドンまでを、
バスだけを使って一人旅をするという目的で
日本を飛び出した主人公「私」の物語であり、
筆者自身の旅行体験に基づいている。
(2)
<さて、これからどうしよう……>
そう思った瞬間、
ふっと体が軽くなったような気がした。
今日一日、予定は一切なかった。
せねばならぬ仕事もなければ、
人に会う約束もない。
すべてが自由だった。
(3)
今日だけでなく、
これから毎日、朝起きれば、
さてこれからどうしよう、
と考えて決めることができるのだ。
それだけでも
旅に出てきた甲斐があるように思えた。
(4)
ガヤの駅前では野宿ができた。
ブッダガヤの村の食堂では
スプーンやホークを使わず
三本の指で食べられるようになった。
そしてこのバグァでは
便所で紙を使わなくてもすむようになった。
次第に物から解き放たれていく。
それが快かった。
(5)
ヒッピーたちが放っている饐えた臭いとは、
長く旅をしていることからくる
無責任さから生じます。
彼はただ通過するだけの人です。
今日この国にいても
明日にはもう隣の国に入ってしまうのです。
(6)
もちろんそれは
旅の恥は掻き捨てといった類の
無責任さとは違います。
その無責任さの裏側には
深い虚無の穴が空いているのです。
深い虚無、
それは場合によっては
自分自身の命をすら
無関心にさせてしまうほどの虚無です。
(7)
彼らも人生における
執行猶予の時間が欲しくて
旅に出たのかもしれない。
だが、
旅に出たからといって
何かが見つかると決まったものでもない。
まして、
帰ってからのことなど
予測できるはずもない。
わからない、
それ以外に答えられるはずがなかったのだ。
(8)
わからない。
すべてがわからない。
しかし人には、
わからないからこそ
出ていくという場合もあるはずなのだ。
(9)
思いきり
手足が伸せる幸せを味わいながら、
甲板に坐ってチャイを飲み、
河を渡る風に吹かれていると、
カトマンズからの30時間に及ぶ強行軍が、
もうすでに楽しかったものと
思えてきそうになる。
なんと心地よいのだろう。
その気持を言表わしたいのだが、
どうしても適切な言葉が見あたらない。
すると、
放心したような表情で
空を眺めていたアランがぽつりと言う。
“Breeze is nice”
うまいなあ、と思う。
(10)
私にはひとつの怖れがあった。
旅を続けていくにしたがって、
それはしだいに大きくなっていった。
その怖れとは、言葉にすれば、
自分はいま旅という長いトンネルに
入ってしまっているのではないか、
そしてそのトンネルをいつまでも
抜け切ることができないのではないか、
というものだった。
(11)
数カ月のつもりの旅の予定が、
半年になり、一年にもなろうとしていた。
あるいは二年になるのか、三年になるか、
この先どれほどかかるか
自分自身でもわからなくなっていた。
やがて終ったとしても、
旅というトンネルの向こうにあるものと、
果してうまく折り合うことができるかどうか、
自信がなかった。
(12)
旅の日々の、
ペルシャの秋の空のように
透明で空虚な生活に比べれば、
その向こうにあるものが
はるかに真っ当なものであることは
よくわかっていた。
だが、私は、もう、
それらのものと折り合うことが
不可能になっているのではないだろうか。
(13)
旅がもし
本当に人生に似ているものなら、
旅には旅の生涯
というものがあるのかもしれない。
人の一生に幼年期があり、少年期があり、
青年期があり、壮年期があり、
老年期があるように、
長い旅にもそれに似た
移り変わりがあるのかもしれない。
(14)
いずれにしても、
やがてこの旅にも終わりがくる。
その終わりがどのようなものになるのか。
果たして、
ロンドンで《ワレ到着セリ》と
電報を打てば終わるものなのだろうか。
あるいは、
期日もルートも決まっていない
このような旅においては、
どのように旅を終わらせるか、
その汐どきを
自分で見つけなくてはならないのだろうか……。
この時、私は初めて、
旅の終わりをどのようにするかを
考えるようになったといえるのかもしれなかった。
(15)
もし、この本を読んで
旅に出たくなった人がいたら、
そう、
私も友情をもって
ささやかな挨拶を送りたい。
恐れずに。
しかし、気をつけて。