【人生はキミ自身が決意し】岡本太郎の心を打ち抜く名言【貫くしかないんだよ】

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岡本太郎

既存概念にとらわれず、幼少の頃から絵を描くのが好きだったが、「何のために描くのか」という疑問にさいなまれながらも東京美術学校へ進学。自由や権利を阻害するものや権威で押さえつけようとするものには、生涯反抗した。芸術を志す人々だけではなく、広く一般の人々にも共感と影響をあたえた。

自分に能力がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。なければなおいい、今まで世の中で能力とか、才能なんて思われていたものを越えた、決意の凄みを見せてやるというつもりでやればいいんだよ。

「この瞬間、瞬間に、若さとか、年よりとか、力があるないとか、才能とか、金とか、あらゆる条件を超えて、その持てるぎりぎりいっぱいの容量で挑み、生きるということだ」

「人間にとって成功とはいったい何だろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか」

自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ

自分を大事にしすぎているから、いろいろと思い悩む。駄目になって結構だと思ってやればいい。最悪の敵は自分自身なんだから。自分をぶっ壊してやろうというつもりで、そのくらいの激しさで挑まなければ、いままでの自分を破壊して、新しい自分になることはできない。

食えなけりゃ食えなくても、と覚悟すればいいんだ。それが第一歩だ。その方が面白い。

自分は自由だ、という自信がある人だったら、どんど創ってみる。もし、自分がまだ自由でない、と考えるのなら、それでもかまわないという気持ちで、平気でやってゆけばいい。

限界は、考えない。人間は、はじめから限界のうちに立たされているんだから。

負けた者こそバンザーイと、大いに胸を張ってにっこりする、これだよ

生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。過去にこだわったり、未来でごまかすなんて根性では、現在を本当に生きることはできない

「愛」の前で自分の損得を考えること自体、ナンセンスだ。そんな男は女を愛する資格はない。

自分は消極的で気が弱い、何とか強くなりたいと思う人は、いまさら性格を変えようなんて変な努力をしても難しい。強い性格の人間になりたかったら、自分がおとなしいということを気にしないこと、それが結果的には強くなる道につながる。強くなろうと思えば思うほど余計、コンプレックスを持つだろう

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積み減らすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう

生きるということを真剣に考えれば、人間は内向的にならざるを得ない。また逆に、自分が内向的なために、かえって外に突きだしてくる人もいる。だから内向的であると同時に外向的であるわけだ。これが本当の人間的な人間なのだ。歴史的に見て、英雄とか大きな仕事をした人は、みんな内向性と外向性を強烈に活かしている。

絶望の中に生きることこそが、おもしろい。そう思って生きる以外にない、それが本当の生きがいなんだ

信念のためには、たとえ敗れるとわかっていても、己を貫く、そういう精神の高貴さがなくて、何が人間ぞ!

挑戦は美であり、スタイルだ

自分がこの親の血をひいているなんて考える必要はまったくない。たまたま、偶然に生まれてきただけで、あまりこの親から生まれてきたとか考えない方がいいんだな

殴り合いからお互いが理解できる場合だってある。闘っていくことを忘れてはいけない

尊敬する人を持つことは甘えだ。それよりも、感動を大切にしろ。

あっちを見たりこっちを見たりして、まわりに気を使いながら、カッコよくイージーに生きようとすると、人生を貫く芯がなくなる。そうじゃなく、これをやったら駄目になるんじゃないかということ、まったく自信がなくってもいい、なければなおのこと、死に物狂いでとにかくぶつかっていけば、情熱や意志が湧き起こってくる。

孤独で、自分と闘っている人間は、鏡に向かって対話するんだよ。孤独を純粋に貫けば貫くほど、逆にそれは魅力になってくる

創り出すことと年齢なんて関係ないよ

人間は精神が拡がるときと、閉じこもるときが必ずある。強烈に閉じこもりがちな人ほど、逆に拡がるときがくる

どんなにすごい美人にでも、無視されてもいいから、彼女のそばで、気持ちをひらけばいいんだ。愛情を素直に彼女に示すんだ。その結果、彼女から答えが得られようが得られなかろうが、お返しを期待せず自分の心をひらくことで、自分自身が救われるはずだ

今までの自分なんか、蹴飛ばしてやる。そのつもりで、ちょうどいい

永遠というのは時間を越えた「瞬間」なんだ。だから、愛に燃える瞬間が永遠で、その後に続こうが続くまいが、どのような形であろうと、消えてしまってもそれは別なことだよ

意志を強くする方法なんてありはしない。そんな余計なことを考えるより、本当にいまやりたいことに、全身全霊をぶつけて集中することだ。ひたすらそれを貫いてみる。はたから見れば、あの人はなんという意志の強い人なんだろうということになるんだ。

挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままでオリてしまったやつには、新しい人生などはない

駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約を受けないで生きていく。そうすれば、何か、見つけられるチャンスがおのずからひらけてくる

人の目を意識するような者にかぎって、人から見られもしないし問題にもされていない場合がほとんどだ

ぼくはこうしなさいとか、こうすべきだなんて言うつもりはない。「ぼくだったらこうする」と言うだけだ。それに共感する人、反発する人、それはご自由だ

何か、これと思ったら、まず、他人の目を気にしないことだ。また、他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、委縮せずありのままに生きていけばいい。これは、情熱を賭けられるものが見つからないときも大切だ。つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約を受けないで生きていく。そうすれば、何か、見つけられるチャンスがおのずから開けてくる。一日も早く実行してみるといい。

自分を他と比べるから、自身などというものが問題になってくるのだ。我が人生、他と比較して自分を決めるなどというような卑しいことはやらない。ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、脇目もふらず突き進むだけだ

ぼくはどんなに苦しいときでも、苦しいような顔をしないから、自由気ままに生きているように見られたね。

激しく挑み続けても、世の中は変わらない。しかし、世の中は変わらなくても自分自身は変わる。世の中が変わらないからといって、それでガックリしちゃって、ダラッと妥協したら、これはもう絶望的になってしまう。そうなったら、この世の中がもっともっとつまらなく見えてくるだろう。だから、闘わなければいけない。闘い続けることが生きがいなんだ。

人生、生きるということ自体が、新鮮な驚き、喜び、新しく開かれていく一瞬一瞬であり、それは好奇心という浮気っぽいもの以上の感動なんだ。

本当に生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ。それを忘れちゃいけないと思う。

人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストを尽くすことだ。現在に強烈に開くべきだ。未練がましくある必要はないのだ

生涯を通じて、瞬間瞬間の危険に賭けるのが真の人間の在り方だと思う。

僕はいつでも最低の悪条件に自分を突き落とす。そうすると逆にモリモリッと奮い立つ。自分が精神的にマイナスの面をしょい込むときこそ、自他に挑むんだ。駄目だ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのが僕の主義。最大の敵は自分なんだ。

自信に満ちて見えるといわれるけど、僕自身は自分を終始、落ち込ませているんだ。徹底的に自分を追い詰め、自信を持ちたいなどという卑しい考えを持たないように、突き放す。僕がわざと自分を落ち込ませている姿が、他人に自信に満ちているように見えるのかもしれない。

よく「どうしてそんなに自信があるんですか」とか、「自信に満ちていてうらやましい」と言われる。だが、僕は自信があるとは思っていない。自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘い続けることなんだ。

一度でいいから思い切って、僕と同じにダメになる方、マイナスの道を選ぼう、と決意してみるといい。そうすれば、必ず自分自身にワァーッと盛り上がってくるに違いない。それが生きるパッションなんだ。いまは、ほとんどの人がパッションを忘れてしまっているようだ。

みんなどうしても安全な道の方を採りたがるものだけれど、それが駄目なんだ。人間、自分を大切にして、安全を望むんだったら、何もできなくなってしまう。計算づくでない人生を体験することだ。

何にもしないで、人生を無駄に過ごすなんて、つまらないじゃない。そういう生活を続けていると、世界全体を見失うし、また、自分自身を見失うことになる。

何を試みても、現実ではおそらく、上手くいかないことの方が多いだろう。でも、失敗したらなお面白いと、逆に思って、平気でやってみればいい。とにかく無条件に生きるということを前提として、生きてみることを勧める。無条件に生きれば、何かが見つかる。だが、必ず見つけようと頑張る必要もない。

何をすればよいのか、それがわからない、と思うかもしれない。人に相談したって仕様がない。まず、どんなことでもいいからちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件にやってみるしかない。情熱から生きがいが湧き起こってくるんだ。情熱というものは、「何を」なんて条件付きで出てくるもんじゃない、無条件なんだ。

人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのだ。

僕はいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている。誰だって人間は弱いし、自分が大事だから、逃げたがる。構わないから、こっちにいったら駄目だ、と思う方に賭ける。本当に生きるっていうのは、そういうことだ。

夢に賭けても成功しないかもしれない。そして、そのとき、ああ、あのとき両親のいうことを聞いておけばよかったと悔やむこともあるかもしれない。でも、失敗したっていいじゃないか。不成功を恐れてはいけない。人生の大部分の人々が成功しないのが普通なんだ。

仮に親の顔色をうかがって就職し、安定を選ぶとしようか。が、それが青年自身の人生なんだろうか。「俺は生きた!」といえる人生になるだろうか。そうじゃないだろう。親の人生をなぜるだけになってしまう。そんな人生に責任を持てるだろうか。若者自身の本当の生きた人生には決してならない。自分自身の生きる筋は誰にも渡してはならないんだ。この気持ちを貫くべきだと思う。

安易な生き方をしたいと思ってしまったときは、そんな自分を敵だと思って闘うんだ。結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えば、これほど爽やかなことはない。

人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれ変わって運命をひらくのだ。それには心身ともに無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋に膨らんでくる。いままでの自分なんか蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。

決意の凄味を見せてやるというつもりで、やればいいんだよ。

本当に生きるということは、環境に迎合したり、また安易に受け入れられ、好かれたりすることであってはならない。私はいわゆる成功はむしろ絶望に等しいと思っている。いつでも計算を超えた無目的な闘い、いわばあらゆる対象への無条件な挑みを続けることが人間的であり、生きがいであると信じている。

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