高畑勲「お別れの会」にて。宮崎駿の言葉

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パクさんは95歳まで生きると思い込んでいた。

そのパクさんが亡くなってしまった。

自分にもあまり時間がないんだなぁと思う。

9年前、私たちの主治医から電話が入った。

「友達なら高畑監督の煙草をやめさせなさい。」

真剣な怖い声だった。

主治医の迫力に恐れをなして、

僕と鈴木さんはパクさんとテーブルを挟んで向かい合った。

姿勢を正して話すなんて、初めてのことだった。

「パクさん煙草を止めてください。」と僕。

「仕事をするためにやめてください。」これは鈴木さん。

弁解やら反論が怒涛のように吹き出てくると思っていたのに、

「ありがとうございます。やめます。」

パクさんはキッパリ言って頭を下げた。

そして本当に、パクさんは煙草をやめてしまった。

僕はわざとパクさんの傍へ煙草を吸いに行った。

「いい匂いだと思うよ。でも、全然吸いたくならない。」とパクさん。

彼の方が役者が上だったのであった。

やっぱり95歳まで生きる人だなぁと、僕は本当に思いました。

1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、

僕らは初めて出会いました。

初めて言葉を交わした日のことを今でもよく覚えています。

黄昏時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。

雨上がりの水溜まりの残る通りを、一人の青年が近付いてきた。

「瀬川拓男さんの所へ行くそうですね。」

穏やかで賢そうな青年の顔が目の前にあった。

それが高畑勲こと、パクさんに出会った瞬間だった。

55年前のことなのに、なんとでハッキリ覚えているのだろう。

あの時のパクさんの顔を今もありありと思い出せる。

瀬川拓男氏は人形劇団「太郎座」の主催者で、職場での講演を依頼する役目を

僕は負わされていたのだった。

次にパクさんに出会ったのは東映動画労働組合の役員に推しだされてしまった時だった。

パクさんは副委員長、僕は書記長にされてしまっていた。

緊張で吐き気に苦しむような日々が始まった。

それでも組合事務所のプレハブ小屋に泊まり込んで、

僕はパクさんと夢中に語り明かした。

ありとあらゆることを。

中でも作品について。

僕らは仕事に満足していなかった。

もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。

何を作ればいいのか。どうやって。

パクさんの教養は圧倒的だった。

僕は得難い人に巡り会えたのだと嬉しかった。

その頃、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。

大塚さんに出会えたのは、パクさんと出会えたのと同じくらい幸運だった。

アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは大塚さんだった。

ある日大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。

こっそりです。

それは、大塚康生が長編映画の作画監督をするについては演出は高畑勲でなくてはならないという会社への申入書だった。

当時、東映映画では「監督」と呼ばず「演出」と呼んでいました。

パクさんと大塚さんが組む。

光が射し込んできたような高揚感に湧き上がっていました。

そしてその日が来た。

長編漫画第10作目「太陽の王子 ホルスの冒険」が大塚・高畑コンビに決定されたのだった。

ある晩、大塚さんの家に呼ばれた。

会社近くの借家の一室にパクさんも来ていた。

ちゃぶ台に大塚さんはきちんと座っていた。

パクさんは労働組合事務所と同じように、すぐ畳に寝ころんだ。

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なんと僕も寝ころんでいた。

奥さんがお茶を運んでくれた時、僕は慌てて起きたが、

パクさんはそのまま「どうも。」と会釈した。

女性のスタッフにパクさんの人気が今ひとつなのは、この無作法のせいだったが、

本人によると、股関節がずれていてだるいのだそうだった。

大塚さんは語った。

「こんな長編映画の機会はなかなか来ないだろう。困難は多いだろうし、製作期間が延びて問題になることが予想されるが、覚悟して思い切ってやろう。」

それは「意思統一」というより、「反乱」の宣言みたいな秘密の談合だった。

もとより僕に異存はなかった。

なにしろ僕は原画にもなっていない新米と言えるアニメーターに過ぎなかったのだ。

大塚さんとパクさんは、事の重大さがもっとよくわかっていたのだと思う。

勢いよく突入したが長編10作目の制作は難航した。

スタッフは新しい方向に不器用だった。

仕事は遅れに遅れ、会社全体を巻き込む事件になっていった。

パクさんの粘りは超人的だった。会社の偉い人に泣きつかれ、脅されながらも、

大塚さんもよく踏ん張っていた。

僕は、夏のエアコンの止まった休日に出て、大きな紙を相手に背景原図を描いたりした。

会社と組合との協定で休日出勤は許されていなくても、構っていられなかった。

タイムカードを押さなければいい。

僕はこの作品で仕事を覚えたんだ。

初号を見終えた時、僕は動けなかった。

感動ではなく驚愕に叩きのめされていた。

会社の圧力で、迷いの森のシーンは削られる削られないの騒ぎになっていたのを知っていた。

パクさんは粘り強く会社側と交渉して、ついにカット数からカット毎の作画枚数まで約束し、

必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた。

当然のごとく約束ははみ出し、そのたびにパクさんは始末書を書いた。

一体パクさんは何枚の始末書を書いたのだろう。

僕も手一杯の仕事を抱えて、パクさんの苦闘に寄り添う暇はなかった。

大塚さんも、会社側の脅しや泣き落としに耐えて、目の前のカットの山を崩すのが精一杯だった。

初号で僕は初めて、迷いの森ヒルダのシーンを見た。

作画は大先輩の森康二さんだった。

なんという圧倒的な表現だったろう。

なんという強い絵。

なんという優しさだったろう。

これをパクさんが表現したかったのだと初めてわかった。

パクさんは仕事を成し遂げていた。

森康二さんも、かつてない仕事を成し遂げていた。

大塚さんと僕はそれを支えたのだった。

「太陽の王子」公開から30年以上経った西暦2000年に、パクさんの発案で「太陽の王子」関係者の集まりが行われた。

当時の会社の責任者、重役たち、会社と現場の板挟みに苦しんだ中間管理職の人々、制作進行、作画スタッフ、背景・トレース・彩色の女性たち、技術家、撮影、録音、編集の各スタッフがたくさん集まってくれた。

もう今はないゼロックスの職場の懐かしい人々の顔も交じっていた。

偉い人たちが「あの頃が一番おもしろかったなぁ。」と言ってくれた。

「太陽の王子」の興行は振るわなかったが、もう誰もそんなことを気にしていなかった。

パクさん。

僕らは精一杯、あの時を生きたんだ。

膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。

ありがとう、パクさん。

55年前に、あの雨上がりのバス停で、

声をかけてくれたパクさんのことを忘れない。

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