依頼心を捨てよ。これに尽きる。文学博士 鈴木大拙の言葉

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(1)

愛は、

自我をしてその愛する対象の中に

みずからを失わしめる。

しかも同時にまた、

その対象を自分のものにしようとする。

これは矛盾であり、

また人生の一大悲劇である。

(2)

愛は

実在をあるがままに

正しく見ることから流れ出る。

(3)

西洋人は

物事を頭で考えて

分析・比較・対照するが、

東洋人は全体を見て腹で考える。

(4)

禅とは、

心の奥底にある

無限の創造性に徹し、

これに随順して生きること。

(5)

禅は不意を打つものだ。

(6)

禅は事実を扱うものであって、

一般論を語るものではない。

禅は人格の根源に直入する。

(7)

禅とは

一人ひとりの実際の体験であって、

分析や比較によって

得られる知識ではない。

(8)

悩みの解決は

矛盾を超越するところに見られる。

人間は反省する、分別する、

矛盾を見る、悩むとすれば、

その矛盾を超越するより外に

解決の途はない。

(9)

意識の世界は、

不可避的に、制限と、

道を阻む障壁とに充ちた世界である。

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(10)

人間は

偉くならなくとも

一個の正直な人間となって

信用できるものになれば、

それでけっこうだ。

(11)

依頼心を捨てよ。

これに尽きる。

(12)

我々は

知性に生きるのではなく、

意志に生きるのだ。

(13)

偉大な仕事は、

人が打算的になっておらず、

思考していないときになされる。

(14)

死を恐れるのは、

やりたい仕事を持たないからだ。

やりがいのある、

興味ある仕事に没頭し続ければ

死など考えているヒマがない。

死が追ってくるより先へ先へと

仕事を続ければよいのである。

(15)

真っ黒になって

黙々として一日働き、

時期が来れば“さよなら”で消えていく。

このような人間を

偉い人だと自分は言いたい。

鈴木大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉 – 1966年〈昭和41年〉7月12日)、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広く知らしめた。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教学者」。[要出典]1949年に文化勲章、日本学士院会員。名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。


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