手には5本の指がある。
その5本の中でどの指が中心であるか。
こう考えてみると1番中央の、丈の高い、
姿のよい中指のように思える。
しかし、
中指に手の働きの
自由自在がまかされているだろうか。
親指の姿は醜い。
丈も低い。節も1つ足りない。
1番端の方にいて、
お邪魔になっているような姿である。
生まれて以来、
親指にはまだ一度も
指輪をはめてもらったこともない。
親指はまことに粗末に扱われている。
それでも親指を除外することはできない。
ペンを持つにも、お茶を飲むにも、
何をするにも
四本の指が親指と組み合わされた時に
はじめて自由自在が許される。
中指がなくても、小指がなくても、文字は書ける。
お茶も飲める。
他の4本の指は絶対にのけられない指ではない。
5本の中で絶対に除けられないのは親指である。
親指を除いて、
他の4本の指だけではなかなか茶を飲めない。
扇子も開けられない。
何でも稽古すれば相当上手にはなれる。
しかし親指を除いて扇子を開くことはできない。
中心を失ってはならない。
親を除け者にしてはならない。
―
私にも経験がある。
学生時代に親からもらう手紙は長い。
身体を大切にせよ。
しっかり勉強せよ。
誘惑にまけるな、遊びにいくな、
と事細かく書いてある。
その長い手紙を子供は短く読む。
「さて今月はいくら送金してくれただろう」
と要領よく読んでしまうことが多い。
子供から親に出す手紙は非常に短いのを通例とする。
要点だけを簡単に書いてある。
親はその短い手紙を長時間かけて読む。
どうかすると3日も4日もくり返して読む。
書いてないことまでも読んで涙ぐんでいる。
思いを子供の上にはせる親心は涙ぐましい。
この親心の切実さを知るならば、
わが親、わが夫の親、わが妻の親に
どれほど心をつくしても
なお足りないのではあるまいか。
親から頂いた手紙を毎日おし頂いて
親の心に添うようにつとめるなら、
世の中はどんなに美しくなるだろう。
どんなに清らかになるだろう。
自ら省みて恥いるばかりである。
― 常岡一郎さんの手記より