人間何をしてもいいが、あまり自分を不幸にしてはいけない。小説家 井上靖の言葉

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(1)

人間は

自分が価値があると信じた仕事に

全力を挙げて没入すべきであり、

ただそうすることだけに

価値があるのかもしれない。

私は今日、

人間の仕事というものについて

そうした考えを持っている。

(2)

人間何をしてもいいが、

あまり自分を

不幸にしてはいけない。

(3)

年齢というものには

元来意味はない。

若い生活をしている者は若いし、

老いた生活をしているものは老いている。

(4)

本当のことを平気で言える

相手もなかったとしたら、

お前はこれまでの長い一生を、

何のために生きて来たか

判らないことになる。

(5)

友情というものは、

お互いに相手に対する尊敬と

親愛の念の絶えざる持続が

なければならぬものである。

(6)

「養之如春」(これを養う春の如し)

──何事であれ、もの事を為すには、

春の陽光が植物を育てるように

為すべきだという意味である。

“これを養う”の

“これ”には何を当てはめてもいい。

子供を育てることも、愛情を育てることも、

仕事を完成することも、病気を癒すことも、

みな確かに、

あせらず、時間をかけてゆっくりと、

春の光が植物を育てる、

その育て方に学ぶべきなのである。

(7)

克己(こっき)という言葉を知っているか。

克己とは自分に克(か)つことだ。

非常に難しいが、

人間が他の動物と違うところは、

誘惑や欲望と闘って

自分に打ち克つことができるという点だ。

勉強するも克己、仕事をするのも克己、

みな克己だ。

(8)

人生は所詮

克己(こっき)の一語に尽きる。

(9)

地球上で二人が顔を合わせたら、

そこには一つの約束がある。

何だといったら

相手の立場に立って物を考えよう。

「仁」ですね。

いわゆる思いやりです。

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(10)

人生というものは、

本当は金ではないと思うんですよ。

しかし、

金という目標を設けておくと、

恐らく生き易いですね。

(11)

仕事や努力が適正に評価され

報われるというようなことは、

その人その人の持つ運であって、

世の中には

りっぱな仕事をしても報われない人は

沢山いるはずである。

人間の生き方というものは、

おそらくそうしたこととは全く

無関係なものであろう。

(12)

愛が信じられないなら、

愛なしで生きてごらん。

世の中が信じられないなら、

世の中を信じないで生きてごらん。

人間が信じられないなら、

人間を信じないで生きてごらん。

生きるということは恐らく、

そうしたこととは別ですよ。

(13)

女は美しく装うことによって、

自分以上の力を持つものでございます。

女というものを、

神様はそのように

お造りになっていらっしゃいます。

(14)

女は好きな人と結婚しなけりゃだめよ。

好きな人だったら、

その人のために、どんな苦労したって、

後悔しないと思うの。

お金も、地位も何も要らない。

大切なのはその人が好きだってことね。

(15)

人間が一生を生きるには、

その人生行路に於(お)いて、

点もあれば、画(かく)もあれば、

鉤(かぎ)もあれば、

戈(ほこ)もあると思う。

井上靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 – 1991年(平成3年)1月29日)、日本の小説家・詩人。主な代表作は「闘牛」「氷壁」(現代小説)、「風林火山」(時代小説)、「天平の甍」「おろしや国酔夢譚」(歴史小説)、「敦煌」「孔子」(西域小説)、「あすなろ物語」「しろばんば」(自伝的小説)、「わが母の記」(私小説)など。1950年(昭和25年)「闘牛」で芥川賞を受賞、私小説・心境小説が主流だった敗戦後の日本文学に物語性を回復させ、昭和文学の方向性を大きく変えた戦後期を代表する作家のひとり。劣等感から来る孤独と人間の無常を、時間と空間を通した舞台と詩情あふれる文体・表現によって多彩な物語のなかに描き、高い評価を得た。10代から83歳の絶筆まで生涯にわたって詩を書きつづけた生粋の詩人でもある。1950年代は、いわゆる中間小説とよばれた恋愛・社会小説を中心に書いたが、徐々にその作風を広げ、1960年代以降は、中央アジアを舞台とした西域ものと呼ばれる歴史小説、幼少期以降の自己の境遇を基にした自伝的小説、敗戦後の日本高度成長と科学偏重の現代を憂う風刺小説、老いと死生観を主題とした心理小説・私小説など、幅広い作品を手掛けた。まだ海外旅行が一般的でない昭和期に、欧米の大都市からソ連、中央アジア・中東の秘境まで数々の地を何度も旅しており、それを基にした紀行文や各地の美術評論なども多い。1980年(昭和55年)には日中文化交流会会長、1981年(昭和56年)には日本ペンクラブ会長に就任し、以後、文壇・文化人の代表としても国内外で積極的な文化活動を行った。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章。


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